人生には理不尽な状況はつきものですが
こんにちは。
『理不尽マイスター』のポンタ丸です。
幼少の時より今まで生きてきて数々の理不尽に悩まされ、どうしたら理不尽に正しく対応できるのかを日々研究してまいりました。
思えば仏教を勉強し始めたのも、あまりにも理不尽な状況を少しでも改善したいと思ってのことです。
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そうして仏教の勉強をしながらも、色々なサイト上の記事を読んでは他の人たちがどのように理不尽な状況に対応しているのかを参考にしようと思ったのですが、想像以上に役に立たない記事ばかりで
「こんなんで解決するなら苦労せんわ」と思っていたものでした。
そして私は決意したのです!
「理不尽に対する正しい解決法がわかったら記事にして皆様のお役に立てていただこう」 と。
このたび、やっと理不尽な状況に対しての正しい対処法がわかりましたので記事にすることにいたしました。
できればこの記事を少しでも多くの方に読んでいただいて、皆様を悩ます理不尽な状況を改善する一助になればと願っております。
理不尽を制する者、(ある程度)人生を制す
理不尽な状況を正しく乗り越えることができれば、人生はかなり楽になります。
少なくとも私の心は前よりず~っとず~っと軽くなりました。
しかし完璧ではありません。
本当に人生を制したと断言できるのは『悟った』ときのみだからです。
ただ理不尽な状況を打破するには、ある程度心を向上させることが必要になってきます。
心の向上の延長上に『悟り』があるとすれば、理不尽な状況を乗り越えるということは、ある程度人生を制したと言えるのではないかと思うのです。
理不尽な状況を改善するのは『我慢』ではない
「理不尽な状況にどう対処するか」という記事はネット上にいくらでもあります。
そして、その記事にはある一つの共通点があります。
それは『我慢』です。
記事の内容は大きく分けて二つあります。
1. 人生において理不尽な状況は多かれ少なかれ生じるものだから我慢しようというもの
2. 今生での理不尽な状況とは、過去世での行いが悪かった報いなのだから我慢しようというもの
要はどちらも「我慢」で乗り切れというわけです。
しかし、あなたは理不尽な状況に対して「我慢しろ」と言われて納得できますか?
少なくとも私は納得できませんでした。
「我慢」することで状況が改善されていくとは思えなかったからです。
何かしらのアプローチをしてこそ状況は改善されていくものではないでしょうか?
私はそう強く信じて様々なアプローチをしてきました。
まあ私の場合、正しいアプローチではなかったので失敗の連続だったんですけどね( ノД`)トホホ~。
そうしてそれは本当に全く笑えない状況を更に生み出していったのでした(笑)
理不尽な状況に対する正しいアプローチとは
では、理不尽な状況に対して私たちはどのようなアプローチをしていくべきなのでしょうか?
理不尽な状況に対する正しいアプローチとはどのようなものなのでしょうか?
その答えは「忍耐」です。
この一言に尽きます。
しかし、この記事を読まれている方の中には「我慢」と「忍耐」の違いがよくわからない方もおられることでしょう。
「我慢」と「忍耐」は似たような印象を受けますが、中身は全く異なります。
簡単に申しますと「我慢」は、し続けることで病気になりますが、「忍耐」は、し続けることで悟りに達します。
そのくらい違うものなのです。
「我慢」と「忍耐」の違いとは
「我慢」と「忍耐」の私なりの定義を申し上げるなら
我慢: 状況に対して怒りや納得できない感情を抱えたまま、その状況に甘んじること
忍耐: 状況に対して直接アプローチをするのではなく、状況に対して自分の心を改善・向上させていきながら正しい答えを模索していくこと
と、このようになります。
どのようにして「忍耐」すべきか?
では私たちはどのように忍耐するべきなのでしょうか?
正しい忍耐の道とはどういうものなのでしょうか?
そこで私が断然おすすめするのが南伝仏教(テーラワーダ仏教)です。
この南伝仏教は、スリランカ・タイ・ミャンマーなどの東南アジアで広まっている仏教で、2500年前のお釈迦様の教えがかなり忠実に残されているとされています。
かたや日本に広まっている大乗仏教は中国を経由してきたせいか、かなりお釈迦様の教えから遠ざかっている部分があるようです。
とは申しましても私も両者を比較検討できるほど仏教に詳しいわけではありません。
ただ、自分の心の向上・改善に南伝仏教(テーラワーダ仏教)が一番役に立ったのでお勧めするわけです。
皆さんも是非、正しい忍耐の取り組み方を実践して理不尽を乗り越えていってくださいね( ゚▽゚)/
さて、かなり話が長くなってしまったので次回に続きます。