どうしてわたしたちは理不尽な目にあってしまうのか?


 

人生理不尽だらけ

 

理不尽に納得できないみなさまへ

 

『理不尽』な出来事にみまわれて日々悶々とされている全国のみなさま、こんばんは。

自称『理不尽マイスター』のポンタ丸です。

みなさまは自分の身におこる理不尽にどうしても納得できない、我慢ならないからこれを読まれているのですよね?

お気持ちはよ~くわかります。

『理不尽マイスター』を自認するわたくしも、どれほど理不尽には泣かされてきましたことか((=゚Д゚=))ノ




そう、どうしてわたちたちは理不尽にみまわれるのでしょうか?

納得いかないことばかり起きて、腹が立って仕方ない方もおられるでしょう。

そんなみなさまは理不尽な出来事にみまわれる理由をお知りになりたいと思われませんか?

そんなみなさまにわかりやすい解説を見つけましたのでご紹介いたします。

 

数々の理不尽を乗りこえた後、この解説を読むと「まったくもっておっしゃる通り!」という感想になると思いますが、理不尽に納得できない方が読むと、さらに「こんなの納得できんわ!」という感想を持たれるやもしれません。

 

もし、「納得できん!」という感想を持たれたら、それは「もっと成長せんといかんな」というサインです。

今の理不尽な出来事は自分を成長させてくれているチャンスなのだと思い、前向きに乗り越えていってくださいませ(^◇^;)

 

人間は偽善的生き物

 

さて、【自分を大切にするってどういうこと?】でご紹介いたしました日本テーラワーダ仏教協会発行の『ブッダの瞑想法は、こんなに簡単です』という施本で、わたしたちが理不尽な目にあう理由が説明されています。

今回はその部分をご紹介したします。

 

引用ここから

人間とは実に摩訶不思議な生き物で偽善的といえばこれ以上の偽善的なものはないというほどの生きものです。

心のなかに本当の状態というものがありながら、現実の世の中での生活ではその本当の状態は見せずに、別の顔を見せて生きている。

しかも、自分でもそういう事実に気がつかないでいるのです。

 

どんな人でも、心のなかでは「自分はすばらしい人間だ。自分はいつも正しい完璧な存在だ」と思っているのですが、表には決してそれを見せようとはしない。

見せないのだけれども自分中心のわがままな心は実によく出ている。

なのにそれを「これは自分の我がままだ」とは自覚していないのです。わかっていないのです。

 

我がままをそのまま出して生きていけば、必ず苦しみとして、不幸として返ってきます。

しかし多くの人々は外向けの顔と自分のほんとうの心とのぶつかりあいの結果で不幸に陥っていくことに気づかないのです。

 

そして「なぜ自分だけがこんなにひどい目にあうのか」などと世の中の理不尽さに腹を立てたりするのです。

 

ひとことで言えば、われわれは結局、自分のした行為の結果を生きているのです。

 

ある人がひどく不幸な境遇にあろうとも、それは自分の勝手な生き方の結果だから仕方ないことなのです。

しかし普通の人は、そのことを正しく理解したり納得したりしているわけではない。

自分では納得できないからこそ、いろいろ疑問を訴えたり、文句を言ったりしているのです。

 

私たちは、自分たちがいうこと、すること、思うことはすべて正しいと思いこんでいます。

結果としてのその思い込みが否定されると「なぜ自分はこういう不幸な目にあわなくてはならないのだ」という非常な不幸感を味わってしまうのです。

 

心の中はわがままで「自分さえよければいい」という状態なのに、外に向かっては、まったく我がままのない、他人のために尽くす人のようにふるまっている。

そこで精神的な葛藤に負けると落ち込んだりするのです。

引用ここまで

 

心の中はわがままで「自分さえよければいい」という状態なのに、外に向かっては、まったく我がままのない、他人のために尽くす人のようにふるまっている。

ここらへん、本当に「いたたたた~」って感じですね。

あの頃、わたしはものすごいアホだったのでした・・・( ノД`)



 

スマナサーラ長老の叱責

 

さて、8年くらい前のことです。

人生最大の大逆境期、名づけて『ゴリゴリ期』に突入したわたくしは、少しでも状況をよくしたいと瞑想をはじめることにして誓教寺で行われる瞑想実践会に参加することにしたのです。

 

 

そこで個人面談の時間にスマナサーラ長老に今の状況を説明し、不満を訴えたのでした。

 

するとスマナサーラ長老は「慈しみの心で接しなさい」と一言おっしゃられたのです。

 

わたしにはまったく納得できませんでした。

相手が悪いのに、どうしてわたしが慈しみの心を持たなくてはならないのか理解できなかったのです。

そこで「でも・・・」と反論しようとすると、「言われたとおりにやりなさい!」と厳しい口調で叱責されたのです。

 

ふいうちの叱責に驚きましたが「わかりました」と言って引き下がるしかありませんでした。

 

そこで腹を立てて「なにさ!こんなことやってられない!」とそのまま帰ってもよかったのですが、帰ったところで事態はまったくよくはならないのです。

 

わたしはもう自分の怒りにほとほと疲れていました。

なんとかこの怒りを手放したくてしかたなかったのです。

 

「自分には何かわかっていないことがある。だから納得できるまでがんばってみようじゃないか!」

 

自分をひどい目に合わせた人たちに慈しみの心を持てるかどうかはわかりませんでしたが、とにかく乗りこえるためにやってみようと思ったのでした。

 

そして、あれから7年以上経ち状況はものすごく変わりました。

 

乗りこえようと、絶対に乗り越えるんだと、何度も何度も自分に言いきかせて、瞑想に励んだ日々はわたしにとってかけがえのないよい経験になりました。

 

理不尽な出来事は、心で乗りこえようとすれば、ものすごく自分を成長させてくれます。

 

「ピンチはチャンス」とはよく言ったものです。

 

みなさまも、もしかしたらわたくしのように智慧のある方から叱責を受けることがあるやもしれません。

そんなときは智慧のある方は慈しみの心で叱ってくださっているのだと知りましょう。

 

自分は何もわかっちゃいないということを知って、今の自分を乗りこえていきましょう。

少しでも成長できれば「あのころ、自分はアホやった」ということがお分かりになるはずです。

 

みなさまが幸せでありますように( ゚▽゚)/





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