人間はすばらしい存在なのか?
真理は厳しい
さて、わたしがGANTZの作者は仏教徒なのかな~と思った理由は、前回の記事で書いたように、輪廻転生の描写がものすごくリアルだったことがあげられます。
GANTZの作者は仏教徒?~描写がけっこう仏教っぽい(ネタバレ注意)
そして、もう一つの大きな理由がGANTZ36巻の「真理の部屋」でのGANTZメンバーと高次の生命体とのやりとりがあげられます。
これ読んで衝撃を受けた人ってけっこう多いんじゃないかって思うんですよ(^◇^;)
いきなり高次の生命体から
『人間の命はちりやゴミとなんら変わらない』
『きみ達の存在は我々からみればごく微小な昆虫となんら変わらない。きみ達がたとえ何百、何千単位で死んでも私達からみれば大したことではない。』
なんて言われたら、玄野(くろの)君に限らず大抵の人は「そんなことはない!私達の命は価値があるのだ!生きるってすばらしいことなのだ」と言い返したくなると思います。
わたしだって「あんたの命はゴミ同然」なんて言われたら「そりゃ、言いすぎでしょ」と言い返したくなります。
命は平等
確かに「あんたらの命はちりやゴミと同じ」というのは言い過ぎだと思いますが「あんたらの存在はごく微小な昆虫となんら変わらない。」という言葉は正しいのです。
仏教では「命の平等」を説いています。
果てしなく続く輪廻の中で、自分に縁の無かった生命はいないからです。
今、自分はたまたま人間の形を持っています。
しかし、前前前世くらいで親兄弟、友人だった人が、もしかしたら今生で会うときには虫や動物に転生しているかもしれないのです。
命はさまざまに形を変えながら、輪廻を繰り返します。
ですから、仏教では他の生命の殺生を禁じています。
神は存在しない
ここで高次の生命は「君たちがすがる神などというものは存在しない」と言いきります。
仏教でも同じ立場をとります。
仏教では天界の生命としての神々は存在するとしていますが、いわゆる一神教の全知全能の神という存在を認めていません。
いるかどうか証明できないからです。
もし、全知全能の神がいるならどうして世界がこんなにも混乱し、ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じ神を信仰しながら、いがみあい殺しあうという矛盾が生まれるのでしょうか?
全知全能の神というのは人間の妄想の域を出ない存在なのです。
そのようないるかどうかわからない神を信仰するより、自分の心を厳しく律することを仏教は薦めているのです。
人間はただのモノにすぎないのか?
また高次の生命は「人間は只のモノにすぎない」とも言いきります。
まあ、これは漫画ですからかなり過激な言葉を使っています。
これは本当に正しいのでしょうか?
実際はどうなのかということは私たちが調べなくてみなくてはならないのです。
では机と人間では何が違うのでしょうか?
まず机も人間も形(かたち)があるという共通点があります。
物質です。
ただ机をひどく叩いても机は何も感じることはありません。
感覚が無いからです。
しかし、私たちが誰かに叩かれると痛いのです。
感覚があるからです。
また机はものを覚えようとはしませんが、わたしたちはさまざまなことを記憶していきます。
また机は「何かしたいな~」と思いませんが、わたしたちは常に「~したい」と思っています。
また机は美しい風景を見て感動することはありませんが、わたしたちは美しい風景や絵画を見ると感動を覚えるのです。
仏教ではこれを五蘊(ごうん)と呼んで生命とは何かを説明しています。
この五蘊によってわたしたちは「自分がいる」という強烈な錯覚に陥っているのですが、五蘊というのは瞬間・瞬間変化しつづけていくものなので、実際には「自分という存在はない」というのが正しいのです。
「自分という存在は錯覚である」
「私というものは存在しない」
こういうことが腑におちれば、それがすなわち「悟り」です。
そういう観点から見れば「人間は只のものにすぎない」という言い方もあながち間違いではないように思います。
とはいえ、ここに出てくる高次の生命は「慈しみの心」に欠けていますよね。
玄野君の前でレイカちゃんをよみがえらせておいて、次の瞬間、また肉の塊にもどすとかって、現実を見せたのだとしてもひどい仕打ちだと思います。
確かにここに出てくる生命は真理を語っているのかもしれませんが、悟ってはおらんなというのがわたくしの感想ですね。
悟った方というのは「智慧」と「慈悲」の両方を持っておられるのですよ。
仏教を学んでいるとGANTZも一味違った見方ができるようになっておもしろいですよ。
みなさまが幸せでありますように( ゚▽゚)/