人を許せないのは自分を許せないから?
【許す】ためにいろいろ調べたけれど
「人を許せない」というのは、常に怒りが心にあって、非常に苦しい状態です。
わたしも人を許せない状態にあったとき、本当に毎日が苦しかったので、早くこの怒りを手放したいと切実に願っていました。
それで仏教を勉強しながらも、ネットも色々読みました。
そこで、気になったのが「人を許せない人は、自分を許せないから」とか「人を許すには、自分を許すことが必要」という表現。
「ふ~ん、深層心理ではそんなものなの?」
自分のことなのに、結局、まったくわかっていないのが「自分の心」というものです。
「人を許せないのは、自分のことを許せないから」と書かれていたら「そんなこともあるのかもしれないな」と素直に思ったのでした。
じゃあ「許せない自分」ってどんな自分なのよ?
ところが、それがさっぱりわからないのでした。
分からない以上、許しようがない・・・(^◇^;)
それで一応「【自分を許せない自分】が心のどこかにいる」という可能性は捨てないままに、瞑想しながら自分の心と向き合う日々を送ったのでした。
ところが、いまだに「許せない自分」がわからない
わたしが許せないと思っていた人を許すまで5年以上かかったわけですが、許せた今となっても結局「許せない自分」の存在がわからないままです。
人は千差万別ですから、人の心も自分だけの物差しではかるわけにはいきません。
ですから、中には「人を許すために、自分を許すこと」が必要な方もいらっしゃるでしょう。
私の場合は「自分を許す」というよりも「自分の執着に気づく」ということが必要でした。
【執着】は心にがっちりくっついていて気づきにくい
【執着】というのは「これは絶対に私に必要」という心の接着剤みたいなものです。
ですから【執着】があると、好きな相手のことや、自分の夢や希望を心にしっかり塗り固めてしまうわけです。
こうなると自分の心に【執着】があることさえ気づきにくくなりますし、心から取りのぞこうとしても、なかなか離れてくれないという状態になります。
私の場合は【仕事への執着心】が非常に強くて、「こうなりたい自分」と「なれない自分」との間で、いつも葛藤が起きていました。
最終的に自分の執着に気づき、それを手放すことで、結果として相手を許すことができたわけですが、執着を手放すことじたいが非常に難しいのです。
5年間、瞑想を続けながら、様々な大きな「気づき」を何度か経験して、そのことで少しづつ心が成長していたために、自分の執着に気づいたとき「捨てる」という選択をすることができたのだと思いますが、それでも自分の執着を手放すときは、心にものすごい大きな苦しみが生じたのでした。
それは「これを手放したら、自分の願いは二度と叶わなくなる」という恐怖感です。
自分が「こうなりたい」と思う自分になれない
それは明るい未来が永久に閉ざされてしまうような絶望感と恐怖感でした。
それで、何度も何度も自分に「捨てても大丈夫。それはただの妄想だ」と言いきかせ続け、執着を手放す決意をしたのです。
執着を手放すと心に穴があいた感じになる
執着というのは心の接着剤みたいなものだと書きましたが、それを無理に引きはがすわけですから、やはり心に穴があいたような感じになります。
ものすごく心が空虚になった感じです。
【ついに許す!: 許すこと、それは自分との闘い~私とエゴのガチバトル】でも書きましたが、わたしはそんな自分をほめることで、その辛い時期を乗り越えました。
そして、ここでは書いていませんが「自分に謝る」ということもしました。
少し日にちが経って、心が落ち着いてくると、どれだけ自分の執着が自分の心を苦しめていたかが分かるようになってきたからです。
「私の執着のせいで、ずっと苦しめてきてごめんね」
自分を苦しめていたのは、他人ではなく自分自身だったのです。
執着があるから、人は苦しむ。
そのことがはっきりわかった経験でした。
まとめ
私の場合は「自分を許す」ことより、「自分の執着」に気づき、それを手放すことによって、結果的に「相手を許す」ことができました。
自分をほめたり、謝ったりすることが「自分を許す」行為と言われたらそうなのかもしれませんが、私にはよくわかりません。
でも、結局いちばん必要なのは「自分の心を観察し、理解する」ということです。
時間はかかるけれど、確実に自分を苦しみから解放してくれます。
この件はわたしにとって非常によい経験となりました。
みなさまが幸せでありますように( ゚▽゚)/
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