『慢』とは自分を他人と比べて測ること
低能先生とは
6月25日に福岡で有名ブロガーHagex氏が刺殺されるという事件がありました。
犯人ははてなブックマークなどで「低能先生」とあだ名されていた松本英光容疑者。
わたしはてっきり周りから低能扱いされて「低能先生」と呼ばれていたのだと思っていたら、実は松本容疑者が「低能」という言葉で中傷誹謗をくりかえしていたため付けられたあだ名と知ってびっくりしたのでした。
参考記事:月刊SPA!
こちらの記事を読んで二度びっくりしたのが松本容疑者って九州大学文学部出てたんですね。
そんな高学歴でどうしてラーメン店で働いていたのか謎ですが、3年前に辞めて、2016年くらいから「はてなブックマーク」で中傷誹謗などの荒らしを始めたということです。
まあ、仕事やめてヒマになってしまい、書きこみにあけくれていたらエスカレートしていって、周りから迷惑がられる存在になってしまったという図式が見えてきます。
人間、ヒマになって誰も注意する人がいなくなるとロクなことをしないという典型的な例ですね。
「低能先生」にみる『慢(まん)』の煩悩の種類
『慢(まん)』という煩悩があります。
普段は「高慢な人」・「傲慢な性格」というような使われ方をしますね。
「慢」という煩悩はどういう煩悩かといいますと「自分と他人を測る、比べる」という煩悩なのです。
私達は「自我」がありますが、人と比べないと「自我」を確立できないのです。
比べていないと不安なのです。
ですから、ずーっと人と比べること、測ることを無意識にしています。
その中で「あの人は自分より劣っている」と考えることは「高慢」という煩悩になります。
「低能先生」が「低能」という言葉で他の人を中傷誹謗していたのも「低能先生」が高慢だったからです。
しかし、ここで注意しておきたいのが、私たちの基本的な慢の煩悩は「高慢」であるということです。
私達はみんな、自分という存在に無限大と思えるほどの価値をつけています。
その価値に勝てるものなど出てきませんから、基本的に私たちは「高慢」な性格で生きていくことになります。
わたしたちはみんな「高慢」なのです。
そのいい例が「自分は正しい」という思いこみです。
それが本当に正しいかどうかもわからないのに、無意識に「自分は正しい」と思いこんでいるのです。
それが変化して「同等慢」(自分と等しい)という煩悩になったり、「卑下慢」(相手より劣っている)という煩悩になります。
実は「慢」という煩悩は本能なので無くすことは非常に難しく、『阿羅漢(あらかん)』という悟りの最終段階までいかないと全部消えることはないとされています。
悟りの段階に関する記事:
消すことができないので、消すかわりに「高慢」という煩悩が「同等慢」になったり「卑下慢」に変化するわけです。
「慢」の煩悩のこわさとは
「慢」という煩悩は人によって強かったり、弱かったりします。
この「慢」が強くなり、思考癖(しこうぐせ)になり、性格形成にまで影響を及ぼしてしまった場合が問題なのです。
今回の「低能先生」も高慢があまりにも強くなりすぎて、性格をとんでもなくゆがめてしまった結果、このような殺人事件まで起こしてしまったのです。
「慢」という煩悩は「無知」という煩悩から生まれます。
そして「慢」がさらに「無知」を強くしていくのです。
「無知」という親と「慢」という子がお互いにお互いを強化していくのです。
「無知」が強化されるということは、イコール「バカ」がすすむということです。

どんどん「バカ」になるので、自分がバカやっているということさえ気づけないのです。
「低能先生」も自分がまわりをバカにすることで、実は自分がバカをやっているということには全く気付けなかったのです。
そして、この「無知」の煩悩がどんどん強くなればなるほど、他の煩悩も強くなります。
「欲」・「怒り」・「嫉妬」などの煩悩がどんどん強くなっていくのです。
すると今度はそれが行動になって現れます。
「低能先生」の場合は、まずネット上での中傷誹謗でした。
そしてそれを周りが止めようとすると、それを逆恨みして殺人まで犯してしまうことになったのです。
「慢」が強くなると、理性が働かなくなるのです。
行動がすべて感情まかせになってしまうのです。
だから「低能先生」は怒りの感情にまかせたまま、人を殺してしまったのです。
そしてこの「慢」が強くなってしまい性格ができあがってしまうと、治すのはほぼ無理です。
ですから、ネット上で執拗(しつよう)に傍若無人な書きこみをしている人に対しては「かなり重篤な精神病」にかかっていると思って、対策をとられたほうがいいでしょう。
「慢」をかしこく使って人格向上しよう
慢は阿羅漢に悟るまで全部消すことはできません。
しかし慢をかしこく使うことで、わたしたちは向上することも可能なのです。
例えば「人のふりみて我がふりなおせ」という格言がありますね。
これは「あいつみたいな人間にはならんとこ」という『高慢』を使って自分の性格を向上させようとしているのです。
また『好敵手(ライバル)』という言葉がありますね。
これは「あいつにできるなら自分にだってできる」・「あいつにだけは負けたくない」という『同等慢』を使ってお互い努力し上達・向上していくのです。
このように『慢』の煩悩にふりまわされるのではなく、かしこく使って生きていくことこそ、幸せの道といえるでしょう。
これを読まれているみなさまは、くれぐれも「低能先生」のように「慢」で人生を詰むことのないよう、よぉ~く気をつけて生きていってくださいませね。
※こちらの記事は日本テーラワーダ仏教協会から発行された施本
『慢とのつきあい方』を参考に書きました。
こちらの施本に興味のある方は日本テーラワーダ仏教協会にお問い合わせください。
みなさまが幸せでありますように( ゚▽゚)/