【慈悲は奇跡】を実感する
【生存欲】の裏にある恐怖感
普段生活をしていて、漠然とした不安感にさいなまされる方ってけっこういらっしゃるのではないでしょうか?
ちなみに少し前まで、私はけっこう強い不安感にさいなまされていました。
おそらくそれは【生存欲】(生きていたい、死にたくないという強い欲)から出てきているものと思われます。
【生存欲】と【恐怖感】というのは一体になっておりまして、【生存欲】の裏には「死ぬかもしれない」という【恐怖感】があります。
先日、この恐怖感を瞑想で観察してみますと、少しでも将来のことを考えたときに「怖い!」という恐怖感がでてきてくるのがわかりました。
それは、小さな子供が怖いめにあったときに母親にしがみつくような感じで「生」に執着し、未来に対する恐怖感に心は打ち震えていました。
なにしろ将来のことはどうなるかさっぱりわからないので、わたしたちは安心感をえるために様々なことをするわけですが、それでもこの大きな恐怖感が消えることはありません。
「生きていたい」という欲と「死ぬかもしれない」というすさまじい恐怖感にさいなまされながら、とりあえず何とかしようと私たちはがむしゃらに生きているわけです。
おそらくみんなが持っている「漠然とした不安感」というのは、この恐怖感を脳が無意識に押さえこんでいるためと思われます。
なぜかというと、あんな恐怖感を日ごろから感じながら生きていたら、それこそ辛くて生きていけそうにないからです(笑)
色々と観察を続けておりますと【生存欲】というのはか~な~り強大な欲でして、正直なところ「こんなでっかい欲、瞑想してたら、ほんまにいつかは消えていくもんなのだろうか?」というのがわたくしの本音だったりします(^◇^;)
そう、それは例えるなら「シンゴジラ」と「仮面ライダー」との闘いのようなもの。
もちろんこの場合「シンゴジラ」が生存欲で「仮面ライダー」が私です。

VS

「ライダーキックでシンゴジラは本当に倒せるのか?」って誰でも思うのではないでしょうか。
少なくとも私はそう思います・・・(-ω-`*)
しかし、地道に【ヴィパッサナー(観瞑想)】をしていると、少しずつですが生存欲が小さくなっていくのだそうです。
生存欲が小さくなるぶん、恐怖感も小さくなっていくわけでして、そうするとだんだん生きるのが楽になってくるわけですね。
そのようにしながら「生きること」に対する執着をなくす努力を続けていると、あるとき【悟り】に達するわけです。
それはあたかも、仮面ライダーをどんどんバージョンアップさせながら、体もウルトラマン並みにでっかくしていくことで、シンゴジラさえも倒すことが可能にするというようなものです。

とは申しますものの、そこまで心を成長させていく道のりは果てしなく遠い(ように思える)・・・(^◇^;)
その間、生きる不安感にさいなまされ続けるというのも辛すぎます。
では他にも、この「不安感」を小さくする方法はないのでしょうか?
「慈しみ」のネットワークにつながって生きること
漠然とした「不安感」にさいなまされることなく生きる方法は他にもあります。
それは「慈しみ」のネットワークにつながって生きることです。
去年の11月に誓教寺の「瞑想実践会」に参加した時に、スマナサーラ長老が「慈しみのネットワーク」についての法話をされたので、ここで簡単にご紹介させていただきます。
今の時代、インターネットで各自のパソコンはつながって、どんな情報も得ることができますし、反対にいろんな情報を発信することができます。
ものすごく便利です。
パソコンもインターネットにつなぐことで、簡単にアップデートできますし、誰で簡単に操作することができるうえ、情報も簡単に手に入ります。
しかし開発されたばかりのパソコンは、操作はおそろしく難しいうえに、すべてのコードを自分で打ち込んでいかなくてはならないにも関わらず、処理量は今とはお話にならないほど低いものだったのだそうです。
そんな初期のパソコンから使っておられた思い出を嬉々としてお話されるスマナサーラ長老は、仏教のみならず超ハイテクな知識をお持ちのお坊様といえるでしょう( ゚▽゚)/
さて、私たちをパソコンに置きかえてみますと、わたしたちは出始めたばかりのインターネットにもつながれていないパソコンのようなものなんですね。
めちゃめちゃポテンシャルが低い状態です。
胸に手をあててよくよく考えてみてください。
「なんとか一人で生きていかなくては」とか「自分の力で家族をやしなっていかなければ」とか生存欲丸出しで、日々奮闘しているのではないでしょうか?
しかし、これは非常に苦しい生き方です。
だからこそ、人はお守りを買ったり、占いに傾倒したりして、なんとか未来に対して安心を手に入れたいと思っているのです。
気休めでも安心感が欲しいと思うのが人間です。
しかし、本当に安心して生きたいと願うなら「気休め」なんかに手を出すべきではありません。
お遊び程度にしておいてください。
パソコンはインターネットにつなぐことで、その性能を最大限に活かすことができます。
では人間はどうすればいいかと申しますと、「慈しみ」の心で世界とつながることで、安心して楽に生きることができるのです。
これは「法則」なのです。
「慈しみ」の心で世界と接すると、世界から「慈しみ」が還ってくるのです。
今なら解る、長老の言葉の意味
正直なところ、11月にスマナサーラ長老からこのような【慈しみ】のすごさについてのお話を聞いたときには、ピンッとこなかったのです。
しかし今なら解る。長老の言葉の意味。
「慈悲」を実践していると、すごく苦しいとき、辛いとき、困ったときに、まるで【見えざる手】が差しのべられるかのように、ふしぎな偶然が起きるようになるのです!
「慈悲」を携帯していると、守られているという実感がわきます。
「やさしさ」のネットワークで世界とつながることができるのです。
後ろに大きな力が守ってくれているというのは、ものすごい「安心感」です。
私自信、ふしぎな偶然を経験をすることで、ようやく長老のお話が腑におちたのです。
ところで以前、瞑想をしていたとき、人生がどんなに辛かったとしても「優しい心を失うな」という言葉が頭に浮かびました。
そして、それは【真理の言葉】であったと、「優しい心こそが自分を救うのだ」とやっと実感がもてたのです。
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【慈悲】こそ、最大・最高の「お守り」です。
みなさまも是非、【慈悲】を携帯して、安心して日々お過ごしくださいませね(*゚∀゚*)
みなさまが幸せでありますように( ゚▽゚)/
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