愛とは大きな力を得るということと同じ(PART1)


【愛】ってなんだ?

 

 

今回から「やっぱり愛ってすごい力だったんだなあ、今更だけど」って話をします。

 

愛って言葉ってなんか胡散臭いじゃないですか?

映画館で「永遠の愛」とか言いながら、月収の何か月分かのダイヤの指輪勧めてきたりとか。
そんでもって、あっという間に離婚する羽目になったりとかのエピソードは掃いて捨てるほどありますよね。

 

大体「永遠の愛」という言葉が私を「愛」という言葉に拒否反応を示させていた張本人だったりします。



 

「永遠」って口で言うのは簡単ですがその長さは人間の想像の範囲外です。

想像できないから安易に口にするのかもしれませんが、安易に使いすぎと思われませんか?

 

ちなみに「永遠」と「瞬間」は同じとかそういう理屈もありますが、ピンとこないので今回はそういう理屈は無しということで話を進めます。

 

さて、仏教では一つの宇宙が始まって終わるまでの時間を「一劫」という単位で考えます。

(太陽系が始まって消滅するまでの時間とも考えてもいいようです)

 

大体14km×14Km×14Kmの立方体の岩があったとします。
そこに百年に一度、天女が降りてきて羽衣でふわりと岩の表面をなでる。

すると何ミクロンかの岩の粒子が削り取られます。

それを百年ごとに繰り返して、岩が削り取られてすっかり無くなる時間を「一劫」というんだそうです。

ちなみに、この場合自然現象(雨や風)なんかの影響はうけないものとしてお考えください。


出典


死後はどうなるの? (角川文庫)

 

子供のころにアラビアンナイトを読んだ時に似たような話があったのを思い出しました。

王様が「永遠とはどのくらいの長さなのか?」という問いに対して、(答えられなければ殺される運命の)女性はこう答えます。

 

「高さが10Kmのダイヤモンドの山があります。
そこに100年に一度鳥がやってきてくちばしで山を一回こすります。
百年ごとにそれをやって山が無くなる時間が【永遠】でございます。」と答えたのでした。

 

子供のころの私はその答えに非常に感心し「永遠」という感覚をおぼろげながらも解った気がしたのでした。

 

しかし仏教を学ぶとそれが一つの単位でしかないと解り、さらに驚愕したのです。

 

仏典ではよく天人が何劫も天界で遊んで暮らすとか、一劫の間ずーっと地獄で焼かれていたとかの話がありますが、「一劫」の長さを知ったら天界はともかく地獄には行かんようにしようという気持ちにはなります。

 

さて、話をもとに戻します。

「愛」という言葉に昔から小恥ずかしさや、胡散臭さを感じていた私ですが、仏教を学び『ゴリゴリ期』を脱出するとやはり「愛」の力ってやっぱりすごかったんだなあと感じたんです。

 

『ゴリゴリ期』の関連記事:「頑張っても頑張っても報われないと思っているなら~それは人生におけるゴリゴリ期です」

 

しかし「愛」ってどんなものかと言われると答えられませんよね。
男女間の「愛」ってほとんどが「欲」だったり「ご都合主義」なものだったりするし、家族や親しい人たちへの愛って本当に狭い範囲のものでしかありませんし。

 

「村上春樹さんに学ぶ暗闇人生脱出法(Part4) 愛」で仏教では「慈悲喜捨の心」の状態を「愛」ということをご説明いたしました。

 

私が仏教が好きなのはこんなふうに漠然とした概念ではなく、すべてはっきりと教えてくれるところにあります。

愛とは大きな力を得るということと同じ(PART2)」に続きます。






 記事一覧はこちら→「心を洗う」


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