自分の思考に要注意!~思考が業(ごう)となり溜まっていく


 

仏教では思考を一番重要視する

 

 

今回も11月の由宇での瞑想実践会での、スマナサーラ長老の法話をまとめたものです。

関連記事:ヴィッパサナー瞑想のおさらい~目的をつくらない





 

 

わたしたちはずーっと考え事をしている

 

 

わたしたちは起きている間、ずーっと考え事をしています。

寝ている間も思考が回転しているのです。

「夢を見る」といいますが、「見る」のではなく思考が働いているのです。

 

思考していないのは熟睡しているあいだの短い時間だけです。

せいぜい20分くらいのものです。

 

あとはずーっと、頭のなかで考え事をしています。

 

これは生存欲があるために「生きていたい」と様々な判断をすることが必要になってくるためです。



 

 

思考>話す>行う(身体)

 

仏教では身・口・意(しん・く・い)でする行為のうちの意(思考)を一番重要視します。

 

しかし世間一般では体で行う行為を一番重要視するのです。

たとえばある人が強盗を働くと、みな衝撃をうけます。

とんでもなく大騒ぎになってしまうのです。

 

次に、話す行為を重要視します。

たとえば嘘をついたとしたら、もしばれた場合は謝ればいいやと思っていたりします。

体での行為ほどには重要視していないのです。

 

思考についてというとまったく重要視していないのです。

ですので、ずーっと頭のなかさまざまな妄想やイメージでいっぱいです。

 

しかし、仏教では反対です。

心で行う行為=思考を一番重要視します。

 

これは、なぜかというと「思考」というのは、どんなにわずかでも心にものすごいインパクトを与えるからなのです。

この心に与えるインパクトが潜在エネルギーとなり溜まっていきます。

これが業(ごう)です。

 

思考によってエネルギーを心に溜めこんでいるので、いくら輪廻転生を繰り返したとしても、消化しつくせないほどの業(ごう)があるのです。

 

ですから、思考というものに私たちはものずごく注意しなくてはならないのですが、残念なことに私たち人間は汚れた思考しかできないようになっているのです。

 

何を考えても貪・瞋・癡(とんじん・ち)

 

残念ながら、わたしたちは何を考えたとしても貪・瞋・癡(とんじん・ち)の感情が入った思考をしています。

 

※貪・瞋・癡とは煩悩のカテゴリーのことで、むさぼり(欲)・怒り・迷い(無知)のことです。

仏教では煩悩の数が1500あるとされていますが、大きく分けると怒り・欲・無知の三つのカテゴリーに分けられます。

 

 

例えば

 

美味しいものが食べたい=欲

あの人きらい=怒り

どうしたらいいかわからない=無知

 

というようなことになります。

 

何を考えても怒りか欲か無知にカテゴライズされてしまうのです。

 

わたしたちはこのことを大いに恐れるべきなのです。

何故かというと普通に生きているだけで不善行為(善くない行い)をしていることになり、悪業(あくごう)を溜めてしまっているからです。

 

もちろん、思考には強弱があります。

しかし弱いからと言って不善行為にならないわけではありません。

生存欲で「美味しいもの食べたいな~」と考えてもそれで地獄行きになるわけではありませんが、欲の思考なので不善行為になるのです。

 

強い思考になるとかなり危険です。

心が壊れ、不幸に陥って

しまうのです。

 

強い怒りの思考や強い欲の思考にはよくよく気をつけないと、自分を滅ぼしてしまうことになります。

もちろんその分悪業もいっぱい溜めこんでしまうことになります。

 

自分の命の価値プライスレス

 

さて、わたしたちは自分の命に無条件で高い価値をつけています。

 

普通、命の価値をお金で計算したとき、法律ではだいたい事故なんかで相手にケガをおわせたときはこの位、死亡させたときはこの位と、相手の年齢や職業などさまざまなことを勘案したうえで、賠償金額を設定します。

 

しかし、わたしたちは自分の命になると調べもしないでとんでもなく高い価値をつけているのです。

 

どのくらい高い価値かというと

¥10∞(無限大)

 

1があって次に0があってそのあとは0が無限大に続いているのです。

そのくらいの価値を自分の命につけているものなのです!

 

こんなに高い価値を自分につけていると、もうどうにもならなくなります。

なぜかというと、自分の高い存在価値にみあうものを人生から得ようとしますが、それは絶対に不可能なことなのでものすごく苦しい生き方になってしまうのです。

 

¥10∞(無限大)にふさわしいものを見つけるのはまったく不可能です!

人生を満たすことはできません。

できることと言えばせいぜい五感を刺激することくらいです。

しかし、五感も弱いのですぐにマヒしてしまうので、満足感はすぐに無くなってしまい「もっと、もっと」となってしまうのです。

 

では、どのようにすればいいのでしょうか?

難しくはありません。

「1」をとればいいだけです。

「1」が無くなった途端、続く0の数はまったく意味が無くなります。

「0」がいくらあったところで「0」なのです。

 

この「1」をとることこそが【悟り】なのです。



 

 

思考はループする

 

先述しましたように、わたしたちは思考によって膨大な業(ごう)を溜めこんでいます。

 

たわいもない考え事でも業はどんどん溜まっていきます。

しかし強い怒りの思考や強い欲の思考というのは業が溜まるというやさしいものではなく、業を溜めこむ行為になります。

そして、こちらのほうが業が強くなります。

 

その上、思考はループします。

このようなループする思考を妄想というのです。

 

叱られたことで落ち込み、それを思い出しては落ち込み、それによって更に落ち込み・・・と延々と妄想をループさせてしまいます。

 

怒りの妄想をループさせる。

貪り(欲)の妄想をループさせる。

無知の妄想をループさせる。

 

妄想をループさせるということは業を自らどんどん溜めていってる非常に危険な行為なのです。

 

※ここでの『思考』は学業などの論理的思考は含まれないものとします。





 

 

純粋な善行為とは

 

 

仏教では悟っていない人以外はみんな精神的に問題があるとしています。

もちろん、仏教は精神のことを取り扱っていますから、問題解決の方法もきちんとあります。

 

それは妄想をやめることです。

妄想をやめるというのは簡単なことではありません。

時間がかかります。

しかし、やめる努力をすることで私たちの精神的な問題を治すことができます。

 

この妄想をやめる努力をすることこそ唯一【善】なのです。

 

この場合うまくいったか、いかなかったかは問題ではありません。

妄想は【不善】であるから、その【不善】を無くす努力こそが【善】なのです。

 

ヴィパッサナーで実況中継する場合、わたしたちはいくらか思考しなくてはなりません。

妄想と同じ機能を使いますが、そこには貪・瞋・癡(とんじん・ち)が入っていないのです。

だから実況中継こそが【善行為】になるのです。

 

このようにヴィパッサナーで実況中継をすると【善行為】により【善業】が蓄えられ、今まで散々溜めこんできた【悪業】を押さえこみ、出てくるのを後回しにしてくれる効果があります。

 

自分は呪いをかけられている?

 

仏教では人類みんな精神的に問題を持っているということは書きました。

 

そして、自分にものすごい価値をつけているということも書きました。

 

そのようにそもそも精神的に問題があるうえに、自分の価値を無条件に高く設定しているところに、強い妄想をループさせてしまうと自我が強大になり「自分はものすごくえらい人間である」と思いこんでしまいます。

そうすると親に叱られたり、友達に笑われてたりというような些細なことでも大ショックを受けてしまい「もう自分の人生は終わりだ」というようなところまでいってしまって、心を病んでしまうことになります。

 

問題なのは、そういう人は「自分がものすごくえらい人間である」と思いこんでいることさえ気づいていないということです。

ものすごい無知・無明にとらわれているのです。

 

そして、そういう人がときどき「自分は呪いを誰それにかけられている」と言ってくることがあります。

 

わたしたちが普通に生活していても、人を恨んだり呪うというような状況になることはあります。

そういう状況では相手は自分にとって強い存在で、普通の状況では太刀打ちできないから「相手を呪う」ということになるのです。

友達だったらそんなことにはなりません。

 

例えばやくざが傍若無人な振る舞いをしていたとします。

そういうとき、わたしたちは正面切って対処できないので「いつかバチがあたればいいのに」と思ったりするのです。

 

ということは「自分が呪いをかけられている」と思っている人は「自分は(呪いをかけられるほど)相手より強くて高い立場の人間である」と思っていることになります。

 

呪いをかけたとされる相手が、自分を呪いをかけるほどの価値があると思いこんでいるのです。

しかし、それは単なる思い込みでしかありません。

完全な無知・無明なのです。

 

しかも、その思い込みはものすごい悪行為なのです。

可哀そうですが、その思い込み・妄想はものすごい悪業を溜めていってしまうのです。



 

 

自分が誰かを憎んだり呪ったりしたくなったとき

 

 

先述したように、日常生活を送っていると、わたしたちも誰かに嫉妬したり、憎んだり、呪ったりというような状況がでてくるときがあります。

 

しかし、わたしたちはそれが「やってはいけないこと」だと知っています。

だからそこに葛藤が起こります。

 

●「あの人が憎い」→「でも、そんな感情はいけないことだ」→「でもやっぱり憎い・・・、でもこの自分の感情もいやだ」

 

●「あんな奴死ねばいいのに」→「でも相手の死を願うなんて本当はいけないことだよね」

 

 

そのような葛藤はとてもいいことなのです。

自分は悪いことをしていると知っている。

知っていてやっているから、そこで悪の力が弱くなるのです。

 

ちなみに俗世間では知っているのにやることを悪いことだとしますね。

仏教では反対の立場なのです。

 

葛藤があるから、次第に自分の心の悪感情を正していくことができるのです。

 

葛藤はとてもありがたいものなのです。

 

開き直りが一番よくありません。

 

思考をコントロールする

 

 

わたしたちは普通に生きているだけで思考・妄想のせいで悪業をどんどん溜めていっていると書きました。

その思考・妄想をやめることが【善行為】であり、【善業】を溜めることができると書きました。

 

しかし、他にも【善行為】があります。

 

それが『慈悲の瞑想』です。

 

自分の思考をすべて『慈悲』にするのです。

そうすれば思考は貪・瞋・癡(とんじん・ち)に汚されることはありません。

 

慈しみの思考は【善行為】です。

ですから、もし空いた時間があれば『慈悲の瞑想』をしっかりすることで、悪業がでてくるのを押さえることができます。

このように思考をコントロールすることで人生をコントロールすることができるのです。

 

思考がすべてをきめるのです。

 

みなさまが幸せでありますように( ゚▽゚)/

 

関連記事:

慈悲の実践(フルバージョン)はじめにお読みください

慈悲の実践(フルバージョン)釈迦牟尼仏陀の世界








記事一覧はこちら→「心を洗う」


スポンサードリンク

コメントを残す

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください